渚にて

旅行、音楽、読書、日常の雑記をつれづれに。

初夏だけど/春にして君を離れ

長野から松本へ向かう特急ワイドビューしなのに乗っていた時のことだった。

お昼は松本で食べようとぼんやり考えていて、あと30分も経たずに到着というところで、突然電車が停まった。どうやら前方の駅で起きた事故の影響らしい。再開の目処はなかなか立たず、ホームに自動販売機すら見当たらない駅で、乗客は一時間ほど待ちぼうけを食らう羽目になった。

松本での昼食を当てにしていたのに、時刻はもう昼下がりでランチタイムなどとうに過ぎている。最初こそ何もない駅の写真を撮ったり、ホームを散歩したりしていたが、そのうちやることもなくなってしまった。

空きっ腹を何とか誤魔化しながらKindleを開いて読み始めたのは、アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』。ちょうどこの作品のヒロインも、砂漠の真ん中で鉄道に乗り遅れてしまう。

 

主人公のジョーンは急病だという末娘を訪ねた帰りで、夫の待つバグダッドへと戻る途上だった。途中、偶然にも久しぶりに再会した旧友と自分とを比べ、素晴らしい夫と子供たちに恵まれた自分を改めて誇りに思う。しかし鉄道に乗り遅れたことで砂漠の町で長逗留を余儀なくされ、己の過去を振り返るうちに、その幸福に疑問が生まれていく。

 

「何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思う?」

 さあ、というように首をかしげて、ジョーンは微笑を浮かべつついった。

「自分自身について、これまで気づかなかったことなんてあるものかしら?」

 ブランチはゆっくりいった。「ひょっとして……」ふとぶるっと身震いして続けた。「あたしならご免だわね」

       『春にして君を離れ』(アガサ・クリスティー(中村妙子訳)・早川書房

 

ジョーンの視点を通してその家族や友人たちを見直していくと、彼女の言動がいかに支配的で傲慢なものだったかが浮き彫りになっていく。逆に彼女が今まで感謝されていると思い込んでいた人々は、実際は彼女のことをどう思っていたのか?彼らの表情や言葉は一体どんな風だったか。一つ一つの場面を追っていくごとに、もやもやとした不安が高まる。

ポワロやミス・マープルのような殺人事件こそ起きないが、その真実にジョーンが近づいていく様はまさしくサスペンスだといっていいだろう。果たして彼女は本当の自分に気づくことができるのだろうか?

 

ここで先に引用した言葉を振り返り、読者はまたぞっとすることになる。クリスティーは、身近な人間に対する皮肉や悪意を書き出すのが本当に巧い。後味はすこぶる悪いのに、ワイドショーや週刊誌をのぞき見るような醜悪な恐ろしさで読む手が止まらない。

 

ワイドビューしなのがやっと動き出して、3時頃に松本駅に着き、ホテルへ行って荷物を置いた。それから死にそうな顔で栞日に駆け込み、遅すぎたランチを食べて夕暮れの街をぶらぶらと歩いた。

ちなみに『春にして君を離れ』の原題はAbsent in the Springだ。なんと美しく、怖い邦題だろう。人生の春を謳歌していたジョーンにとっての欠落を思う。自分以外を見ようとしなかった彼女と、その春の危うさを。

全てに充ち満ちていると思っている時ほど、足下に注意するべきなのだ。そこに見えるものは何もかも、夢かもしれないのだから。