渚にて

旅行、音楽、読書、日常の雑記をつれづれに。

僕はそっと歩き出して

Mステに初めてフジファブリックが出たようで、後から動画を見た。

バンドのVo.だった志村正彦は10年前に29歳で亡くなり、彼自身がMステに出られることはなかった。Mステでは当時の彼の映像を使い、今のバンドがステージに上がる形で、いつの間にか夏の定番曲となっていた『若者のすべて』を披露していた。

 

フジファブリックは、インディーズバンドとして00年代初頭に登場し、04年にメジャーデビューした。当時こんなバンドはそれこそ数え切れないくらいいた。彼らの多くはいつしか消えていき、あるいはソロで頑張り、別のバンドを組み、または普通の人になっていった。今もなおそのままの名前で活動を続けているのは、ほんの一握りに過ぎない。

フジファブリックは中でも成功した方で、日比谷で野外ライブをし、両国国技館でのライブも果たした。志村が急逝したのはその数年後のことだ。残されたバンドは、活動を続けることを決め、今年デビュー15周年を迎えた。

 

 

若者のすべて』といえば、サビに当たる「最後の花火に 今年もなったな」「何年経っても思い出してしまうな」という歌詞が一番知られていると思う。

でも私がもっとも心惹かれるのは、冒頭の部分だ。

真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた

それでもいまだに 街は落ち着かないような 気がしている

 

 そこに描かれているのは、あまりにもさりげなく、誰の日常にもあり得る風景だ。

夏の終わりはこんな風にして始まる。暑いさなか出かけ、街でも田舎でもイベントが続き、スイカを食べて、あるいは蝉の声にも気づかず忙しなく過ごしている間に。

サビにかかる続きの「ないかな ないよな きっとね いないよな」はとても曖昧なフレーズだ。日本のポップソングにありがちな「君」という主体がこの歌には不在なのだ。だから、単なるラブソングというものではない。

それが一体何なのか、誰のことなのかは明かされないまま、歌の主人公は花火を眺めて、「僕らは変わるかな」と呟く。

花火が終わると夏も終わる。特別なお祭り騒ぎの後は、何となく感傷的な気分になる。そして、喧騒の残り香を感じながらまた歩き出す。

志村は、誰もが過ごすだろうそんな普遍的な夏のことを歌っていた。

 

10年の月日を超えて、この歌は生きた。

強いメッセージがあるわけでも、別にアイドルのような存在だったわけでもない。ただ、志村の歌ったあまりにも普通の風景が、誰かの心のどこか柔らかな部分に引っかかり続けた。『特別』というのは、案外そうして生まれるのかもしれない。

夏が来るたびに『若者のすべて』がどこかでかかる。そしていつかの思い出に浸ったり、この夏を振り返ったりする。そんな曲が一つあることで、少し気持ちが軽くなる時がある。

来年も、そんな夏が来るといいなと思っている。

 

Heaven is A Place on Earth/影の中にいた光

NetflixのSci-fiサスペンスドラマ、Stranger Thingsのヒットでも証明された海外映画・ドラマ界での80年代ブームはまだまだ続きそうな勢いだ。

遙か昔ではないが回顧できるほどには過去の話で、全く80年代を知らない世代にとっては、どこかで聞き覚えのある、あるいは未知の新鮮な世界なのかもしれない。

クイーンを描いた映画『ボヘミアン・ラプソディー』も、バンド結成は70年代だが、南米での壮大なライブやライヴエイドは80年代のことだ。何十年も前の彼らの物語が今なおこうして多くの世代に受け入れられるのは、キャラクターやその音楽の魅力・普遍性によるところも大きいが、制作側の意図も多分に影響しているのではないだろうか。

「あの頃」=80年代という時代の若々しさ、仰々しいまでの輝き、その分浮き彫りにされる影の部分。相反する魅力や、今はないものへの憧れ。そこに織り交ぜて投影される現代性。そんなキラキラしたパッケージとしての「80年代」の魅力を、近年の作品からは感じる。

 

こんな気持ちが強くなったのは、ある曲を聴いてから。

Netflixのドイツ発ミステリーサスペンスSF『DARK』(現在S2まで公開)では、現在と33年前の1986年とが交互に描かれる。

そこには同一人物が登場し、86年にいたとあるカップルが、現在では結婚の周年パーティーを開いている。そこで妻が懐かしい音楽を聴き「私の曲よ!」と踊り出す。友人たちで埋まった部屋に響き渡るのは、87年のベリンダ・カーライルのヒット曲『Heaven is A Place on Earth』だ。


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初めて行った喫茶店の話

ある時とても辛いことがあって、まだ真っ昼間に歓楽街近くの喫茶店に入ってコーヒーを頼み、ひたすら泣いていた。

その喫茶店に入るのは初めてだったが、育てている植木鉢に覆われた外観よりも、中は思ったより広く、店内のあちこちに民芸めいた古道具が絶妙に配置されていた。カウンターには常連らしい年配の人々が、ぽつりぽつりと一人ずつ、入れ替わり立ち替わり訪れていた。

お昼を食べ逃してしまったので、何か食べ物がほしかったが、案の定ピザトーストしかなかった。ともかくブレンドという文字を見つけて注文し、小さなカップの中身をなるべくもたせるようにして、明るい窓辺を見ては静かに泣いていた。まさかそんなに涙が出るとは思いもしなかった。大体、一体何が辛いのかもよく分からなくなっていた。

 

もしも喫茶店の店主のおばちゃんに気づかれたら困るなあと思いながら、Kindleを開いて読みつつぐすぐすとティッシュで鼻をかむ。大量にティッシュが必要だった。しかもその時読んでいた本の内容が『どうやったら惨めになるか』というものなのでどうしようもない。おかげで相当惨めになっていた頃、喫茶店の電話が鳴った。 続きを読む

ペソアの憂鬱をかみしめて

EUフィルムデーズでポルトガル映画の上映があった。

その日の後半のトークには、この春に日本翻訳大賞に選ばれた『ガルヴェイアスの犬』(ジョゼ・ルイス・ペイショット)の翻訳家、木下眞穂さんもいらっしゃるということで、観に行くことにした。

上映作品は短編3作。

アナ・モレイラ『ウォーターパーク』、リカルド・レイテ『恐怖の装置』、そして見てみたかった『いかにしてフェルナンド・ペソーアはポルトガルを救ったか』だ。

 

フェルナンド・ペソアは、20世紀ポルトガルを代表する詩人であり、作家だ。

首都リスボンへ行けば、土産物屋のグッズに必ず彼の歩く姿が使われているほど有名な人物である。作品内容は全く異なるが、知名度夏目漱石みたいな感じ、というと分かりやすいかも知れない。

日本での知名度がどうかまでは私も不勉強なので分からないが、最近、『アナーキストの銀行家』(彩流社)が本邦初訳で出版され、SNSで話題を呼んでいた。そもそもポルトガル語は難しそうだという印象が強い。日本でポルトガル語というと大体ブラジルポルトガル語だし、そんな中でペソアの邦訳が出るということ自体、なかなか珍しいことなのだろう。とりわけペソアの言葉は複雑で大変そうだ。

 

映画『いかにしてフェルナンド・ペソーアはポルトガルを救ったか』は、ペソアが考案したコカ・コーラの宣伝コピーが検閲に引っかかり、以降約50年間ポルトガルコカ・コーラの輸入が禁止されたという史実に基づく皮肉なコメディーだ。ちなみに作品内ではコーラはコカ・ロカという名前になっている。

ペソアは『異名』という分身を使い、自分ではなくそれぞれの別人格として作品を書いた(『異名』は澤田直さんの『不穏の書』訳者あとがきによる)。映画にも登場する分身ーアルヴァロ・デ・カンポスはその一人で、コピーが思いつかず悩むペソアの前に現れ、彼にアイディアを授ける。

雇い主の受けも好評で、すぐさまコピーを載せたポスターが作られるのだが、検閲で「危険物」として扱われ、コカ・ロカは退廃的な飲み物として悪魔払いされてしまう…

 

 

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初夏だけど/春にして君を離れ

長野から松本へ向かう特急ワイドビューしなのに乗っていた時のことだった。

お昼は松本で食べようとぼんやり考えていて、あと30分も経たずに到着というところで、突然電車が停まった。どうやら前方の駅で起きた事故の影響らしい。再開の目処はなかなか立たず、ホームに自動販売機すら見当たらない駅で、乗客は一時間ほど待ちぼうけを食らう羽目になった。

松本での昼食を当てにしていたのに、時刻はもう昼下がりでランチタイムなどとうに過ぎている。最初こそ何もない駅の写真を撮ったり、ホームを散歩したりしていたが、そのうちやることもなくなってしまった。

空きっ腹を何とか誤魔化しながらKindleを開いて読み始めたのは、アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』。ちょうどこの作品のヒロインも、砂漠の真ん中で鉄道に乗り遅れてしまう。

 

主人公のジョーンは急病だという末娘を訪ねた帰りで、夫の待つバグダッドへと戻る途上だった。途中、偶然にも久しぶりに再会した旧友と自分とを比べ、素晴らしい夫と子供たちに恵まれた自分を改めて誇りに思う。しかし鉄道に乗り遅れたことで砂漠の町で長逗留を余儀なくされ、己の過去を振り返るうちに、その幸福に疑問が生まれていく。

 

「何日も何日も自分のことばかり考えてすごしたら、自分についてどんな新しい発見をすると思う?」

 さあ、というように首をかしげて、ジョーンは微笑を浮かべつついった。

「自分自身について、これまで気づかなかったことなんてあるものかしら?」

 ブランチはゆっくりいった。「ひょっとして……」ふとぶるっと身震いして続けた。「あたしならご免だわね」

       『春にして君を離れ』(アガサ・クリスティー(中村妙子訳)・早川書房

 

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季節について

近所にある、個人のデザインだか設計だかの事務所は通りに面して大きくガラス窓を取っていて、部屋の中が丸見えだ。
あまりに堂々と見えてしまうと、かえって中を見る気は起こらないもので(中にいる人と目が合うのも気まずかろう)、これまで見て見ぬふりをしてそっと通り過ぎるだけだった。しかし、この間ついぼんやりと眺めたら、オーナーは白いランニングを着てパソコンに向かっていた。窓から光が入ると暑いもんな、と妙に納得した。
そんな季節だ。

5月からきらきらと眩ゆいばかりに輝いていた緑は、湿気混じりの空気によく馴染む色合いになってきた。街のあちこちでは、ツツジの後を追うようにしてバラが咲いている。ピンクや、白や、いろんな色が華やかに競い合っていて、みんなよく育てたものだなあと感心する。
やっぱり冬よりは春、春よりは初夏が好きかもしれない。色彩豊かで見ていて飽きないし、寒いのも暑いのも苦手だから、途中の過ごしやすい時期が外に出かけやすくて嬉しいのだ。太陽を浴びる習慣がない身にさえ、光があふれているのには思わずうきうきとしてしまう。もちろん帽子は欠かせないのだが。

今日は、今年初のカルピスを飲んだ。
お腹を冷やしすぎるといけないから氷は控えめにした。甘くてさわやかで、紛れもなくあのいつものカルピスの味だった。
昔、夏休みにおばあちゃんの家に泊っていた頃、麦茶をがぶ飲みしすぎて、おばさんに睨まれたことを思い出した。
大人になるというのはカルピスやお茶をいくら飲んでも、怒られないということなんだなと思う。間抜けな話だが、それくらいしか大人らしさというものについてあまりピンと来ない。

いつの間にかおばあちゃんの家はなくなったし、おばあちゃんももういない。真昼にやっていた怖い話の番組もないし、その夜のぼっとん便所に恐怖することもない。
少しずつ何かが消えて、別の何かへと変わっていく。それは時の流れのせいかもしれないし、自分が身につけた力なのかもしれない。

いくつもの夏と冬を積み重ねて、押し流されるようにして新しい季節のカーテンを開くたびに違う何かが待っている。
同じようにバラは咲いてもそれは去年のバラではない。誰かと会っても、きっと同じままの誰かではない。
それは少し寂しくもあるが、同時に心強くもある。
土に水をやって何かを育てること。
自分で何かを作り上げること。
そうして自ら変わっていくことは、とても無駄だとは思えないからだ。

もうずいぶん長いこと私の熱は冷めてしまったが、太陽に照らされていれば少しはましになるかもしれない。
少なくとも今はそう信じて、ぐんぐんと育つ夏の花を見つめている。

本から生まれるユートピア

この前、高校時代の図書室の司書さんに久しぶりに会った。
私の大学入試後にご飯をおごってもらって以来だったので、彼女に気づいた時に私のことを覚えているだろうかとちょっと心配だったけれど、顔を見るなりがっしりとハグされた。

高校入学後に初めて図書室に入った時、好きな作家の本を見つけて駆け寄って叫んでしまった。友人が呆れてまさしく頭を抱えていたのを、ついこの間のことのように思い出す。
図書館や図書室という場所が好きだった私は、ジャンルにこだわらず隅々まで本棚を眺めてどこに何があるかを把握しておくのが得意だった。別に読書をするということに限らず、便覧や文庫目録のあらすじの全てをチェックするのが立派な暇つぶしになるようなタイプだったのだ。

司書さんと仲良くなって、図書室に通い詰めたおかげもあって、どうせ何かの委員にならなければならないならと高学年になってから図書委員に手を上げた。
図書委員の仕事はそんなに多いわけではない。ポスターを描いたり、おすすめの本の紹介をする便りを書いて、コピーするといったものだった。ポスターには図書室の中にある文学全集からかっこいいなと思った文句を選んで書きこんだ。たとえろくに読まれない便りにしても、友人と一緒に準備するのは結構わくわくするものだった。

その頃書いたのは、確か映画の話題が少しと、本はポール・オースターの『ムーン・パレス』、トルーマン・カポーティの『ミリアム』についてだった。カポーティはなんだかおしゃれそうだなと気になってはいたが、飽きっぽい私はあまり興味が続かなかったのか、短編の一話を読んだきりでやめてしまった。
オースターは、映画『スモーク』の原作となる作品や、脚本を書いた作家として知られる。最初に彼の本を手に取った時は、読む手が止まらずにすごい勢いでページをめくっていた記憶がある。見たことのないニューヨークの風景を脳裏に思い描きながら、(フォーチュンクッキー(おみくじ入りのやつ)ってどんなものだろう)と考えていた。


図書委員の仕事で、後にも先にも一度きりのとびきり興奮したことは、ある時司書さんに書店に連れて行ってもらって、「この中から好きな本を5冊選んで、図書室に入れよう」と言われたことだ。
何でもいいの?と信じられない気持ちで、本棚を真剣に見極めた。何が万人に人気なのかもよく分からず、結局は自分が気になる本ばかり集めてしまったが、好きな本を買えるというのはなんて贅沢なことなんだろうと思ったものだ。

最近ちょっと断捨離をして、積ん読になってしまっていた本やDVDを少し手放した。
大人になると、子供の頃には考えられなかったような贅沢に慣れてしまったのか、うきうきしながら買った本でも、そのまま本棚で埃を被っていることがよくある。
手放す本を選ぶ中で、読んだ本でも読めなかった本でも、それぞれに思い出はついて回るものだなと思った。
スパイやスチームパンクが気になっていた頃の本や、何年も前に行った旅先のガイド本、好きな話とそうでもない話が入り交じったアンソロジー、タイトルだけ気になってとりあえず買っておいた本。

この先私が何百年生きたとしても、この世には読み切れないたくさんの本がある。
せめて誰かが私の代わりに読んでくれたらいいと、断捨離した本を古本屋に売って、残った本を読んでいくことにした。
図書館もあまり近くになく、しばらく足が遠のいていたが、また少しずつ通っている。
本が手元にあると安心して読まない癖があるから、どうしても読みたい本だけ延長して、だめなら諦めて新しい本を借りる方がいいような気もしてきた。

少し前に久々に読んだ本は、W.B.イェーツの『赤毛のハンラハンと葦間の風』アイルランドの伝承に影響を受けた話で、女好きの放浪詩人ハンラハンの数奇な人生を描いている。ハンラハンは先日の日記に書いたコノート出身という設定らしい。栩木伸明さんの軽妙な訳で楽しく読めた。
そういえば、アイルランドという場所についてなんとなく知ったのも、音楽や本からだった。エンヤはもちろん、遊佐未森の『ロカ』(アイルランドのバンド『ナイトノイズ』が演奏、ドーナル・ラニーも参加していたという)、O.R.メリングのファンタジードルイドの歌』からも。


大人になってから、憧れだった場所に行ける機会もできた。
それでも、かつて本から想像を膨らませた場所は同じように頭のどこかに残っていて、まるでそこにいたことがあるかのように懐かしく思い出すことがある。
それも旅の一つなのだろう。現実とは別で、想像でしか行けない場所は確かにある。
本を通して、遠い昔の出来事や、自分とは全く違う人々を追ったり、遙か彼方の宇宙や、怪しげな舞台の裏にだって行ける。

そんな旅をもっと続けてみたいなと、残った本たちに睨まれながら考えている。