渚にて

旅行、音楽、読書、日常の雑記をつれづれに。

連休に東の都/『ソフィ カル 最後のとき/最初のとき』展

ソフィ カルの名を最初に知ったのは、アメリカの現代小説家ポール・オースターからだった。
高校生くらいの頃、新聞の書評を見て、ふと手にした本『リヴァイアサン』。今はもうあまり読まなくなってしまったけれど、その中に彼女をモデルにした女性が登場する。
ソフィは拾ったアドレス帳に載っていた人物をたどって、その持ち主のインタビューを行うなど、変わった行動そのものをアートにしていたようだ。
忘れかけながらも、記憶の彼方から時折彼女の名は浮上した。
フランスの奇妙なアーティスト、それが私の知る彼女のおぼろげなプロフィールだ。





品川駅を出て、しばらく歩いた御殿山の住宅街にぽつりと佇む原美術館へ行った(ところで、御殿山といえば、幕末に高杉晋作らが焼き打ちした建設中のイギリス公使館があった場所だ)。
ここに来るのは、随分前に開かれたヘンリー・ダーガー展以来だった。今回開かれていたのは『ソフィ カル 最後のとき/最初のとき』と題された彼女の個展だ。連休半ばの日で、恐らく上野の喧騒や人ごみよりはずっとましだろうが、いつもは閑静な印象のあるこの場所にも次々と人が訪れていた。

壁は白い。最初に入った部屋には、『盲目の人』という作品がある。
その主人公であろう男性の写真と、「私がこれまでに見た最も美しいもの、それは海です」という言葉が静かな灰の海の写真と一緒に置かれている。部屋は海嘯が聞こえるインスタレーションになっている。

『最後に見たもの』は、失明した人をソフィが取材し、そのエピソードと彼らの写真を添えたものだ。観客は写真の前で、受付で渡されたエピソードを読みながらその人の記憶を追体験する。交通事故、銃、病気、愛情…彼らの語る話はさまざまだ。淡々としている分、何度か噛みしめながら写真を見つめてしまう。そこには最後に彼らが見た記憶のあるものの写真が併せて飾られている。うすぼけたバス、その時していた作業、いつもどこにでもあるような他愛のない風景が小さく広がっている。

私はイスタンブールに行った。そして盲目の人々に出会った。多くは突然視力を失ってしまった人々だった。私は、彼らが最後に見たものを話してくれるよう頼んだ。
私はイスタンブールに行った。水に囲まれたその町で、一度も海を見たことがないという人々と出会った。私は彼らの“最初”を撮影した。
――ソフィ カル

『海を見る』は、ソフィがイスタンブールで出会った「まだ海を見たことがない」という盲目の人たちを、海に連れてきて、その映像を撮影したものだ。
どの映像も最初はただ後姿しか見えない。男も女も、子供も老人も、いろんな人が、ただ海を眺めている。波音が大きくなると、彼らがこちらを振り返る。眩しそうな顔、泣きそうな顔、眉をしかめてどうしたらいいのか分からないというような顔をしている。
「海を見たことがない」という経験がどんなものなのか、私にはおよそ知ることができない。それでも、「彼らは一体どんな顔をしていたっけ」と、部屋を出た後も何度か顔を確かめたくなる。響き渡る波音の中で、彼らは喜びも哀しみもすべてを味わっているみたいだ。


さて、前日の夜は友達と会う前に少し銀座をぶらりとし、新しい歌舞伎座を外から眺めた。翌日は美術館、それからまた別の友達と会って、デモが繰り広げられる街中から逃げるようにして酒を飲み続けた。三日目、新橋の鼎泰豊で昼ごはんを友達と食べて、日テレの前に飾ってあったアイアンマンの前で記念撮影。
笑いながら過ごした楽しい3日間でした。ちょっと生き返ったかな?

おまけ
リヴァイアサン』は、オースターの他作品に比べると、割と現実味があって面白い気がします。全米の自由の女神像を爆破し続けた男の数奇な話。