渚にて

旅行、音楽、読書、日常の雑記をつれづれに。

何も考えず、ただことばを

脇にリンクを貼ってある通り、こっそりTumblrをやっているのだが、時々流れて来る言葉をどこかに書き留めておきたいなと思って、今日は家用の日記を買った。ムーミンの、毎月のカレンダーの下に名言集が書いてあるやつ。
ムーミンパパの言葉「自然に帰れ!人生は一度だけなんだ!義務なんて地獄に落ちちまえ」はパンクだし、その後の「大きな旅立ちというものは、書物の、第一行目の文章のように、重要なものなのだよ。その一行が、この一瞬が、すべてを決定づけるんだ」もかっこいい。だから日記には、その日の印象的だったこと(なるべくいいこと)と、Tumblrなどで見た好きな言葉を書いた。それでももったいなくて、ここにもちょっと写しておきたいと思った。

何度も言っている気がするが、ここに書かれた言葉は膨大な情報の片隅でひっそりと息づき、いずれ何かの事情で消えて行くだろう。あるいはもしかしたら、本人がいなくなっても、言葉だけが生き続けていくこともあるかもしれない。実際そんな例もこの情報化社会の中でよく目にするようになった。
どちらでも構いやしないのだけど、机の引きだしの中で静かに埃を被って時を経る言葉よりは、誰かと共有したいなというのが正直なところだ。それがたとえ忘れられても、どこかでひょいと思い出す事があるかもしれない。そのきっかけを忘れてしまっても、一瞬浮かんだ言葉や気持ちは、昔呟いた私の下らない一言であるかもしれない。
そんなほのかな望みを抱いている。
瓶に閉じ込めて海に流した手紙みたいな気持ちが、こういう日記を書くときには、よくある。


じゃあちょっと書いたり、動画を置いたりしておこうかな。途中の翻訳はえせ意訳なので、適当に。

ミランダ・ジュライの革命

このビデオの中では、真冬のだだっ広い野原を女の子たち(スリーターキニーのメンバーを含む)が手をつないで歩く。女の子たちはどんどん増えてゆく、野原の至る所で新しくどさっと倒れ込んでくる子がいるからだ。そのたびごとに全員で駆けつけ、助け起こして起きあがらせ、手をつないで進む。曲の最後では明け方の空に光るものがあり、全員が空を見上げる。吸い込まれそうな光がみんなを包むーーー 。この映像はライオット・ガール・ムーブメントを集約しているという点でまさに奇跡的だ。ひとりひとりではつまずき、前に進めなくなりそうなところを、仲間がいるから立ち上がって進むことができる。女の子たちが、自分は一人きりではないということを知ったことが、そして自分たちの怒りや悲しみ、喜びや欲望は、耳を傾けられてしかるべきものだと認識したことこそが、ムーブメントの最大の功績であり、革命的なところなのだと私は思う。ジュライはそれを最もよく理解していた人物のうちの一人だ。そして、それがよくあらわれているのが、彼女がポートランドに移り住んですぐに始めた女性映像作家のためのオルタナティブな配給プロジェクト、「Big Miss Moviola(ビッグ・ミス・ムビオラ)」。それは世界で最も過小評価されてきた革命的行動のうちの一つだ。
team kathy fun fan club: ミランダ・ジュライ|Miranda July


■12 questions for Woody Allen




■好きなアカウントのひと
i wanted to give a more personal thanks to all of you… your love and support have been key ingredients to my motivation and my ability to continue doing what i love and hate to at times. Never let the world tell you that working with your hands is a disgrace. Dirty isn’t a problem, so you ruin a good shirt or get a few cuts and bruises. A man recently told me one of the most brilliant things i’d heard in my life; “People are afraid of pain because they think of it as this horrible thing so they do their best to avoid it. It’s not until they embrace it that they realize how it’s not all that bad and regret how much they hadn’t done in fear of being hurt.” So if you are one of those shy many that blushes and humbles yourself, i commend you for your modesty and urge you to go for it… The problem with our generation is our fear of being told “no”. So ask the questions and chase the experiences that will act as roadblocks in your life, you’ll have to figure it out on your own and that’s an experience all in its own. Get dirty, take the bruises, run short of breath, and smirk at yourself. 2013 will be damn good.
(Source: lylaandblu.com)
「僕はすべての人に、ごく個人的な感謝を述べたい…君たちの親愛と支えが、僕のモチベーションと、大好きな、時に大嫌いなものに取り組み続けるのに欠かせないものとなっているから。君たちのやっていることが醜いだなんて絶対にいうべきじゃない。
汚さは問題じゃない、だから君たちは上等のシャツを破って、いくらか傷を付けたって構いやしない。
ある男が最近、人生で僕が聞いたなかでも素晴らしいことをひとつ教えてくれた。
『人は傷つくことを恐れている。彼らはそれが酷く怖いものだと思って、何とか避けようとする。でもそういう気持ちを経験してやっと、それがそんなに悪いことばかりではないということに気づく。そして、傷つくことを恐れるあまり、どれだけそうしてこなかったかを悔いるんだ』
もし君たちがこんな、シャイですぐ顔を赤くしたり、謙遜したりするような人だったなら、僕は君たちの慎み深さに、もっと頑張れと言ってあげたい…。僕らの世代の問題とは、僕らが「だめ」と言われることを恐れていることだ。だから質問をし、人生のつまずきになるような経験も追いかけていけばいい。君たちは自分自身で見定めなければならないし、それ自体が全部経験なんだ。
汚れろ。傷つけ。息つく間もなく走れ。そして自分に笑い掛けろ。2013年は最高の年になる」

川上未映子の関西弁フラニーとゾーイー

サリンジャーの「ゾーイー」、これってズーイーがほんまもんなんですかね、ゾーイーの兄妹喧嘩のあの台詞のやりとり、私好きやねんけど、ゴッホんときみたくいつか舞台で大阪弁でやったら面白いやろうなあってそこはかとなく思ってたら、なんと昨日たまたま読んでた本で村上春樹氏が「ゾーイーを関西弁で翻訳したい」つって書いててここにもひとつの共時性が。や、関西弁の人はけっこう思ってる人おるんかもね。
 そうそう、なんか、標準語、っていうか、あの場合は翻訳調が、ってことになるのかな、ゾーイーの鬱陶しさとか真剣さとか優しさとか、フラニーの駄目駄目っぷりとかさ、自意識と若さの「不毛さ」から「太っちょのおばさん的救い」へ一気に駆け上がるあの素晴らしい素晴らしいくだり、その救いが観念的であればあるほどこんなにも素晴らしく、こういう文章に出逢うと「虚構」と「観念」の出自と効果の鮮やかな一致が、私をとてつもなく喜ばす!のだが、会話というよりもおのおのの独白の端々の素敵なところが、もひとつなんか、こう、爆発、する必要もないのかも知れんけど、開花というか、爆発して浸透する、っていうもっとそのための風景があるんではないかなーと思うわけで、んで関西弁。
 
 例えばレストランでイライラしながらスノッブな彼氏に向かってフラニ
「ちゃうねん。張り合うのが怖いんじゃなくて、その反対やねん、わからんかなあ。むしろ、張り合ってしまいそうなんが、怖いねん。それが演劇部辞めた理由やねん。私がすごくみんなに認めてもらいたがる人間で、誉めてもらうんが好きで、ちやほやされるのが好き、そんな人間やったとして、そやからって、それでいいってことにはならんやんか。そこが恥ずかしいねん。そこが厭やねん。完全な無名人になる覚悟がないのが自分で厭になったんよ。私も、ほかのみんなも、内心は何かでヒット飛ばしたいって思ってるやろ。そこがめっさ厭やねん」 
 例えば居間の床に寝転んで引き篭もりのフラニーに向かってゾーイー
「そやけど俺の気に入らんのはな、こんなもんシーモアもバディも気に入るわけないけどな、さっきゆうてたやつらの話する時のお前の喋り方や。つまりな、あいつらが象徴してるもんを軽蔑するんやったらわかるけど、お前はあいつらそのものまで軽蔑しとんのじゃ。個人的過ぎるんじゃ。フラニー、ほんまやで。
 たとえば教師のタッパーの話した時もやな、お前の目普通ちゃうで。人殺すときみたいにぎらぎらしすぎや。光りすぎや。あいつが教室に来る前にトイレ行って髪の毛わざとばさばさのぼさぼさにしてくるゆうあの話。そら全部お前がゆうたとおり間違いないと思うけどさ、でもそんなもんお前に関係なくないか?あいつが自分の髪の毛をどうしたこうしたってええやんけ、あいつなにを気取ってんねん、ププ、ダサイやつやなー思てたら済む話やんけ。悲壮美なんですねーゆうてそんなもんいちいち演出しなあかんほど自信ないんやなあゆうて、同情したったらええんとちやうの。そやのにお前は、ええか、これだけはゆうとくけどおちょくってるんやないで。お前が喋ってんの聞いとったら、あいつの髪の毛自体が、なんかお前の仇みたいになってて、それはちゃうやろ。んでお前がそれをわかってるっちゅうのがもっと気に入らんわ。
 あんな、フラニーな、制度を相手に戦争でもおっぱじめたろかゆうんやったら、頭ええ女の子らしい鉄砲の撃ち方を、せえや。敵はそっちやろうが。あいつの髪の毛がどないしたとか、ネクタイがどうしたとか、んなもん関係ないやろうが」 
 
立川談志の言葉
「よく覚えておけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。そして現状を理解、分析してみろ。そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う」